概要
第1次近衛内閣は、
元老・
西園寺公望の奏薦を受けて
貴族院議長の
近衛文麿に大命が降下し、組閣した内閣である。内閣発足の1ヶ月後に勃発した
盧溝橋事件については、当初、拡大方針を見送っており、現地軍も停戦交渉を行っていたが、その後の閣議で北支居留民保護のために派兵を決定し、国内世論統一のために新聞・通信関係者代表らに協力を依頼した。援兵の派兵によって中国側は交渉態度を硬化させ、さらに
第二次上海事変で交渉は決裂、これらによって
日中戦争(
支那事変)が拡大していった。さらに、同年11月から行われたドイツによる対中和平工作、
トラウトマン工作も最終的に打ち切られることとなり、翌1938年(昭和13年)1月には「爾後国民政府を対手とせず」という、いわゆる「
近衛声明」(第一次近衛声明)を発表し、対中講和の道が閉ざされた。その後、同年4月には
国家総動員法を制定して戦時体制を整え、同年11月に「東亜新秩序建設」を戦争目的と規定する声明(東亜新秩序声明、第二次近衛声明)を発表し、同年12月には親日派の
汪兆銘の
重慶脱出を受けて「近衛三原則」(善隣友好、共同防共、経済提携)を日中和平の基本方針として呼びかける声明(第三次近衛声明)を発表した。1939年(昭和14年)1月に、内閣総辞職。