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広幡豊忠 – מילון עברי-אנגלי

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広幡豊忠
広幡 豊忠(ひろはた とよただ、寛文6年6月26日1666年7月27日) - 元文2年8月1日1737年8月26日))は、江戸時代前期から中期の公卿。主に霊元天皇(112代)・東山天皇(113代)・中御門天皇(114代)の三朝にわたり仕え、官位は従一位内大臣まで昇った。父は久我通名従三位権中納言)。母は西園寺公満従二位左近衛中将)の娘。養父は広幡忠幸正三位権大納言)。叔父に久我通誠従一位内大臣)、実弟に堀川広益(幕府に仕え、高家旗本となる)がいる。子に広幡忠誠(ただとも、第3代当主)、忠章(ただあき(ら)、第4代当主)、忠成(ただなり、第5代当主)、長忠(第6代当主)がいる。娘に小倉宣季(正二位権大納言)室、正親町実連正二位権大納言)室がいる。

1669年(寛文9年)に久我家から広幡家養子入りした。先祖の久我晴通近衛家からの養子であり、豊忠は近衛家の血筋を引いていた。養父の広幡忠幸は八条宮智仁親王を父に持つ旧皇族である。そのため広幡家は新家ながら清華家の格式を与えられている家柄であった。1670年(寛文10年)に叙爵し、以降清華家の当主として速いスピードで昇進し、左近衛少将や左近衛中将を経て、1683年(天和3年)には霊元天皇中宮鷹司房子中宮権亮に任命されるとともに従三位となり、公卿に列する。さらにその後権中納言踏歌節会外弁をへて、1692年(元禄5年)に権大納言に就任。1704年(宝永元年)に辞するまでの12年にわたって務めあげた。その後の1710年(宝永7年)にももう一度権大納言に任ぜられ、1720年(享保5年)までの10年にわたって務めた。この間の1719年(享保4年)には右近衛大将、右馬寮御監にも任じられる。1723年(享保8年)2月4日内大臣に就任したが、同月8日に辞職。1726年(享保11年)に従一位に叙された。

1737年(元文2年)、死去。跡を継いだ子の忠誠、忠章、忠成はいずれも早世し、末子の長忠が第6代当主となった。


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広幡豊忠
広幡 豊忠(ひろはた とよただ、寛文6年6月26日1666年7月27日) - 元文2年8月1日1737年8月26日))は、江戸時代前期から中期の公卿。主に霊元天皇(112代)・東山天皇(113代)・中御門天皇(114代)の三朝にわたり仕え、官位は従一位内大臣まで昇った。父は久我通名従三位権中納言)。母は西園寺公満従二位左近衛中将)の娘。養父は広幡忠幸正三位権大納言)。叔父に久我通誠従一位内大臣)、実弟に堀川広益(幕府に仕え、高家旗本となる)がいる。子に広幡忠誠(ただとも、第3代当主)、忠章(ただあき(ら)、第4代当主)、忠成(ただなり、第5代当主)、長忠(第6代当主)がいる。娘に小倉宣季(正二位権大納言)室、正親町実連正二位権大納言)室がいる。

1669年(寛文9年)に久我家から広幡家養子入りした。先祖の久我晴通近衛家からの養子であり、豊忠は近衛家の血筋を引いていた。養父の広幡忠幸は八条宮智仁親王を父に持つ旧皇族である。そのため広幡家は新家ながら清華家の格式を与えられている家柄であった。1670年(寛文10年)に叙爵し、以降清華家の当主として速いスピードで昇進し、左近衛少将や左近衛中将を経て、1683年(天和3年)には霊元天皇中宮鷹司房子中宮権亮に任命されるとともに従三位となり、公卿に列する。さらにその後権中納言踏歌節会外弁をへて、1692年(元禄5年)に権大納言に就任。1704年(宝永元年)に辞するまでの12年にわたって務めあげた。その後の1710年(宝永7年)にももう一度権大納言に任ぜられ、1720年(享保5年)までの10年にわたって務めた。この間の1719年(享保4年)には右近衛大将、右馬寮御監にも任じられる。1723年(享保8年)2月4日内大臣に就任したが、同月8日に辞職。1726年(享保11年)に従一位に叙された。

1737年(元文2年)、死去。跡を継いだ子の忠誠、忠章、忠成はいずれも早世し、末子の長忠が第6代当主となった。


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