13歳で宿衛(ケシク)に入る。クビライの信任が厚く、それに近侍した。クビライが
モンゴル帝国帝位継承戦争に勝利した際に
アリクブケ側に付いた者たちに対する寛大な処分を勧めてクビライに評価され、
1265年には早くも光禄大夫、中書右丞相に抜擢され食邑四千戸まで加増を受けた。後に平章政事である
アフマド・ファナーカティーと対立するが、
1274年に彼の不正行為をあばいて失脚させる。翌
1275年には皇太子
チンキムや北平王
ノムガンとともに
カイドゥ討伐に向かい、
カラコルムに入ったノムガンとその庶弟である皇子ココチュに扈従し、
カラコルム周辺を領していたモンケ家、
アリクブケ家などの王族との調停に勤めた。しかし、
1276年にノムガン率いる遠征軍がカイドゥの支配領域の面前である
アルマリクに駐留していた時、軍中の
モンケ家の四男
シリギが、モンケ、クビライらの庶弟ソゲトゥの息子(ないし孫)トク・テムルの先導によっての他のトルイ家をはじめてとする王族たちと共謀して反乱を起こした。(
シリギの乱) このため、アントンはノムガンとココチュらととも捕縛され、トクテムルとシリギはノムガンとココチュの兄弟を
ジョチ・ウルスの当主
モンケ・テムルに引き渡し、アントンはカイドゥに引き渡して両陣営に対して自らの反乱への参加を促した。しかし、カイドゥもモンケ・テムルもこの誘いをほぼ黙殺し、シリギの乱は
バヤンの派遣などによって鎮圧された。
1284年に大都に帰還すると、右丞相に復職し、翌
1285年にはアントン不在中に専権を振るった盧世栄の不正行為をあばいて失脚させる。ところが、
1287年に新しく平章政事となった
サンガと対立してその不正を糾弾するも、フビライに取り上げられなかったことから権威が失墜し、
1291年に右丞相を退いた。この年、サンガの不正行為があばかれて失脚するものの、アントンは復権することが出来ずに2年後に没した。