大理国(だいりこく、dàlǐguó)は、
937年に白蛮(
チベット系の
ペー族)出身の
段思平が
南詔(およびその後継国家の大長和、大天興、大義寧)にかわって樹立した国家。現在の
雲南地方を主たる領域として統治していた。集権的ではなく、君主権はそれ程強くなかったと考えられている。君主は終始国内的には
皇帝号を称していたが、後大理国時代の1117年に
北宋より「雲南
節度使大理
国王」に
冊封もされ、対外称号と国内称号を使い分けている。1253年に
モンゴル帝国の
雲南・大理遠征を受けると、翌年大理はモンゴル帝国に降伏。
クビライがモンゴル帝国第5代皇帝となると、その地はクビライの
庶子・
フゲチに与えられ、
雲南王国となった(のち
梁王国と改称)。大理の旧主の段一族はフゲチとその子孫に仕え、子女を梁王家に嫁がせて、この地における支配階級の一員としての地位を保ち続けた。1390年に
明がこの梁王国を滅ぼした際、段一族は梁王家を裏切って明に取り入り大理国の復活を目論んだが、その領内にあった当時
東アジアでも有数の
銀山に目をつけていた
洪武帝は段氏による王国復活を認めず、この地は中国に併合され、
南詔以来の独立国家の歴史はここに終った。