イギリスもアメリカ合衆国もこの地域を領土とし交易を行いたい強い願望があり、領有権を主張する
ロシアと
スペインとの各条約という未処理の問題もあった。デイビッド・トンプソンが
コロンビア川を下る探検旅行のときに、
1811年7月9日、
スネーク川との合流点に柱を立て、イギリスの領土であり、この地に
ノースウェスト会社が交易基地を建設する意図があることを記した。
1818年にイギリスとアメリカの間で合意された第3条により、「共同占有」という表現がなされており、その後も長く領土や条約に関する解決案は示されていなかった。その後の数十年間で行われた交渉では境界について折り合うところを見付けられず、オレゴン紛争はイギリスとアメリカの間の重要な地政学的外交問題になっていった。
1844年、アメリカの
民主党は拡張主義を推し進め、アメリカはオレゴン・カントリー全体の領有権を主張する根拠があると主張した。民主党の大統領候補
ジェームズ・ポークが
1844年アメリカ合衆国大統領選挙で勝利したが、以前の政権が提案していたのと同じ
北緯49度線で境界線の譲歩を求めた。しかし、アメリカとイギリスの間の交渉は決裂し、
インディアナ州選出
アメリカ合衆国上院議員エドワード・アレン・ハネガンのようなアメリカ拡張論者が、選挙で民主党が要求した北緯54度40分でオレゴン・カントリー全体を併合するようポークに迫ったので緊張感が高まった。混乱の中で「54度40分さもなくば戦争」というスローガンが叫ばれた。これはしばしば1844年の大統領選挙や「
マニフェスト・デスティニー」というキャッチフレーズとしばしば結びつけられてきたが誤りである。
ポークと民主党の拡張論政策は2つの別々の同時戦争の可能性を生んだ。というのもアメリカとメキシコの関係が
テキサス併合で悪化していたからである。
米墨戦争の勃発直前にポークはオレゴン境界問題について以前の立場に戻り、北緯49度線での妥協を受け入れた。この合意は
1846年の
オレゴン条約で正式なものとなり、以降、北緯49度線はアメリカと
カナダの国境となっている。